お寺へ行こう

お寺といいますと、最近は法事、葬式の際にお参りすればよい場所となっており、それらの代名詞になっています。
私が幼い頃、霊柩車を見ると親指を隠すようにしていましたが、その頃と変わらず、今の若い方々は僧侶を見ると、何か縁起でも悪いような顔をする人が多いようです。
そして、そういった若い人たちにとっては、仏教はやたら難解で遠く離れた存在であるといった見解を持たれているようです。
そのような間違った思いこみを正し、少しでも身近に感じ、心が安まり、幸せな日々を送られるよう、このホームページの公開を思い立ったのです。
外国人から見ても、日本ほど宗教に於いて複雑な国はないでしょう。
赤ちゃんが誕生してお宮参りは神社に参詣し、その子が大きくなって結婚式をキリスト教で行い、老いて亡くなれば仏教寺院で葬儀式を執り行います。何とも不思議な文化です。
その宗教のポジションを考察すると、どの国の歴史においても、政治・経済・宗教、これらの三本柱が同じ高さのレベルにあるときは、国は安泰しております。

現在の日本はどうでしょう。政治に関しては、どの議員さんを信じればよいのかわからない政治不信を招き、代議士の大先生は自分で自分の命を絶つようなまねをされ、世間に悪い影響を及ぼします。
経済に関しては、目先の利益ばかり追求して、経営破綻を引き起こしバブル崩壊という結果を生み出します。
宗教においても然り、多くの新興宗教が庶民を騙し、金品を巻き上げ、人を恐怖に陥らせています。
既成仏教においても、今、流行の援助交際で逮捕される住職がいます。人の幸せを願うための教えであるはずの宗教がこんな状態なのです。

三本の大黒柱がこのような格好では、世の中が落ち着かないのも当然であります。そして将来のある子供達が新聞紙上を賑わせていますが、大人がしっかりとしないと恐ろしい世紀末になりかねないと考えるわけです。

そこでもう一度、原点に返り、本来の宗教とはどうあるべきかを、私自身も含めて、皆さまと一緒に勉強したいと思う次第です。

まず、お寺にお参りして、檀信徒の皆さまからのご質問で多いのが、仏壇の祀りかた、線香をお供えする本数、そして一番ご興味を持っておられるのが、お布施のことです。

元来、布施は読んで字の如く、僧侶が身につけるための布を施すことです。在家信者達が着古した衣を心持ちで施すことが本来の意味であります。
ですが今の時代には、私どもが「お心持ちで結構です」と言いますと「そのお心持ちがわかりません。相場はどんなもんでしょう」と返されます。
こういったやり取りがしょっちゅう行われますので、檀家役員さん方と会議して基準を設定するわけです。

少し内輪話になりましたが、布施の本来の意味を知っていただき、無理の無いよう気持ちよく施せることが大切です。

檀信徒のご質問の一部をご紹介いたしましたが、前述のものは各宗派・各寺院によって相違がありますので、自分の家の菩提寺のご住職に聞くのが一番です。

さて、元に戻りますが、次に多い質問は「仏教はお釈迦さんの教えで、元は一つなのに、なぜこんなに宗派が分かれているのですか」という、正に的を得たご質問です
平たく申しますと、例えば、お釈迦さんの教えが十あるとするとして、たくさんの弟子達は、その十の中で、私は、この教えとこの教えが大切だと次の弟子に伝えていきます。
また、ある弟子はこちらの五つが大切だと布教していきます。それが長い年月を経て、枝葉として分かれていくのです。

また、もう一つには、その地域・土地によって願いが違うということです。私の地元、但馬を例にとってみると、香美町香住では、当然、大漁を願いでしょうし、養父市の辺りでは五穀豊穣を、豊岡市では差し詰め、商売繁盛を願うことでしょう。

こうやって願いが変わり、そこに住む人の価値観が変わって、各々の宗派が生まれてくるのです。

これらを考えると、宗派は人間自身が形成するといった歴史があるわけで、遠い存在ではなく、自身の心の中に必ず宿っているものである訳です。
そして、数々の教典や仏さんにしても、多種多様な形や教えがあります。これが、仏教を難しく見せる最大の原因だと私は感じておりますが、それは、例えば優しく諭されて理解できる人もいれば、”ガツーン”と怒られないとわからない人もいる訳です。

仏教は全ての人が幸せになるが為の教えですから、当然全ての人の性格や環境にあったものを網羅しなくてはいけないので、それが膨大な教典や仏像となるのです。
そしてその各々に宿る宗教心に気付き、心が安らぐよう生活を営む為のものであります。そこで、仏教を身近に感じていただくため、よく耳にする十三の仏さんを一つずつ簡単に優しく説明させていただきたいと思います。

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